横山大介 ”ひとりでできない” 〜 ”Telephone Portrait”

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我々の生活の中で、街にあふれる広告や雑誌の表紙、免許書などと至る所でポートレート写真を目にする。さらに、現代ではSNSのプロフィール写真をはじめ、以前に比べ大量のポートレート写真を機械内に保持し、インターネット上で共有している。特にインスタグラムにポートレート写真が乱立するのも、2013年ごろから世界的にブームである自撮り=selfieがその一つの要因であろう。それより少し前では、ガラケーやコンパクトデジカメを自らに向け撮影する行為や、鏡に映る自分を撮影する元祖自撮りが流行った。

加えて、ポートレート写真としてのプリクラ文化は、とても重要なポジションであるように思う。「プリ帳」に貼ってみんなで見せあい、交換しあうことが流行したのもつい10~15年前ほどではないだろうか。このことは、今なお女子学生の間で文化として根付いているらしい。外国にも証明写真機の箱に入り、友人同士でいっしょに撮影することがあるようだが、美白効果や目を大きくし、足を長く見せるなどのphotoshop機能は他国文化にはない。またプリントする前に、画面上で写真の上にマークや記号、模様などでデコレーションすることも、目の色や髪の毛の色までも自由に変えることができる。同様に、写真の上に文字を書き「◯◯ちゃんと映画見た」や「学祭お疲れさまー」といったように、どこかに行った先や行事ごとにプリクラを撮影することで、”シール写真”にし友人間でその思い出を共有し合う。この”思い出共有装置”としてのプリクラは、以前ほど話しには挙がらないが十分に現役である。また、インスタグラムやfacebook等のSNSが、この”思い出の共有”機能を引き継ぎ、タグ付けによるインターネット上での写真の分類化という新たな側面も生まれた。これほどまでに身近にポートレート写真が乱立するのも、写真機のデジタル化は無視できない。

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このような状況下で、ポートレート写真そのものを利用することは珍しくはない。感材へのイメージの定着が発達してからと言うもの、特にナダールのような肖像写真家が肖像画にかわりその座を獲得した。ポートレートを芸術の表現手段として利用することは、肖像画や肖像彫刻といったように人類には肖像の長い歴史がある。その長い歴史を牽引する写真家は多くいる。横山大介(b.1982)もまたそうである。横山は、ポートレートを表現手法として用い、制作を続ける作家だ。これと言って目新しい手法で撮影しているわけではないのだが、横山の写真からは特有のにおいが醸し出されている。

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シリーズ”ひとりでできない”では、オーソドックスに目にピントをあわせ、正面から淡々と人物を撮影する。ある者は、全身で。ある者は、上半身で。皆、表情は真剣で硬く、こちらを凝視し何かを訴えかけるように力強い。

彼は、10歳のときに自身が吃音であることに気がついてから、今なお吃音が原因でコミュニケーションが思うようにとれない時があると言う。だが、彼にとって断絶される「会話による不十分なコミュニケーションを補う」ことができる1つの方法として、ファインダーを通して同年代の男女と”会話”をし、シャッターを切るのだ。シリーズ全体でみると、それぞれ場所の特定ができないなど背景の統一性はなく微妙な距離感が露わになっているのだが、むしろこの統一性のない被写体との距離感こそ交友関係の強弱として、横山が、自身の法則で写真を通しコミュニケーションした証なのである。

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別シリーズ”TESHIMA”は、2013年に行われた”豊島 meeting 2013 art-in 片山邸”での発表に向けて制作された、瀬戸内海に浮かぶ豊島で初めて出会った島民を撮影したポートレート作品である。滞在制作中に出会った島民を撮影させてもらうには、もちろん会話をしなければならない。最低限としてまずは自己紹介をし、なぜ写真を撮っているのか、またポートレート作品として登場することへの許可を得る必要がある。
このシリーズでは背景までピントが合い、風景の中に被写体を置いて交流したことが見てとれる。職業は何なのか、どのような人なのか。漁船に立つおじさんや喫茶店の前に立つおばさん、バイクにまたがるお兄さんや農家のご夫婦、オリーブの木の前に立つ女性などと、「この辺りでは何が釣れるのですか?」「今年のいちごの出来はどうですか?」と、横山との会話が聞こえてくるような気がする。生活感や豊島の風景を通して写る人物を探るように撮影され、酪農や農業、漁業などを中心に生計をたてる豊島の人々の表情は穏やかで優しく見える。まさか、この島が公害事件を経て今なお、廃棄物の処理作業が続いていることなど一切感じ取ることはできない。

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“ひとりでできない”の派生として、これまでの流れを汲み進行中の作品”Telephone Portrait”がある。横山にとって「発話時に言葉がでない」ことにより、見えない相手と電話での会話は恐怖心でいっぱいだと言う。そのような不安感がきっかけでスタートした本シリーズでの興味深い点は、写る被写体は皆片手に携帯電話を持っていることだ。タイトルの通り、被写体には実際に誰かと電話をしてもらいながらその様子を撮影する。ポートレート作品として表情は重要なファクターの一つであるが、そこに写る通話中の人々の笑顔、口元の動きや仕草などの表情は、いったい誰のものなのだろうか。その様子を撮影する横山のものなのか。または電話先の相手のものなのか。もしくは、彼の作品を鑑賞する我々のものなのだろうか。そのような問いを残しながら、彼は進化するコミュニケーションの本質を探っているようにも感じ取れる。少し被写体は撮影されていることに意識し過ぎているようだが、撮る撮られることの”意識の介在”や”関係性の崩壊”がこのシリーズでは今後より浮き彫りになってくるのではないだろうか。
如何なる場所や姿勢、ましてや地下鉄でさえ通話ができるのだから、様々場所や状況の中で撮影された作品として、最終アウトプットの形で見てみたい。

現代社会において、コミュニケーションの選択肢は幅が広くなった。身体的であるジェスチャーによる表情やスキンシップ、また、手紙やメール等の文字による方法、狼煙やモールス符号等の伝達方法など細かいところまで挙げればきりが無い。しかし、人間にとって会話は重要なコミュニケーションツールであるのだが、それを思うように操作できないもどかしさというものは、初期に外国語を操る際のもどかしさとも明らかに違うだろう。手話や筆談が会話のコミュニケーションツールに補われているように、横山の場合はレンズの先にある人物をファインダーを通し”会話”をする。つまり乱立する”思い出の共有装置”としてのポートレート写真は、彼にとって”コミュニケーションツール”として展開する。
それぞれのシリーズ”ひとりでできない”や”TESHIMA”、”Telephone Portrait”の先にある今後の展開に期待したい。

WaPoC ディレクター 玉置慎輔

www.daisukeyokoyama.com
画像提供:横山大介

2015-09-30 | Posted in 作家紹介Comments Closed 

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